


皆さん、こんばんは。
自分が写真を始めた頃、カメラ雑誌で楽しみにしていたのはユーザ投稿のフォトコンテストのコーナーでした。日本カメラの月例フォトコンテストでは、モノクロ・カラープリント、リバーサルなど部門が分かれていましたが、中でもリバーサル部門が一番厳しかった印象。「あと半絞り開けていたら良かった」とか「画面端に写り込んだXXが残念」みないなのがあって「リバーサルだと撮影時にそこまで判断しなければいけないのか」と溜息をついたものです。実際スライド映写機で表示する際はトリミングも露出補正もできませんから、撮影した瞬間に36×24mmのフィルム上に作品として完成されていることが重要だったわけです。
AFも無く連写もせいぜい秒数コマだった当時、時間・空間の切り取り、露出・フォーカースの決定は全てカメラマンの力量に任されており、写真という趣味の面白さとは、芸術面以外にも撮影時の刹那に「カメラマンのイメージする映像をいかに的確にフィルムに露光させるか」という個々の技術を競う要素が、現代とは比較にならない程大きかったと思います。
一方、自分がメインとしていたモノクロプリントでは、そもそも印画紙や写真パネルのアスペクト比が3:2ではないのでトリミングを意識して撮影(リバーサルほどの厳しさは無し)。覆い焼きや焼き込みによる画像の加工も当たり前。それに撮影以前に、フィルムは長巻のロールで購入して空のパトローネに自分で巻いて作り、撮影後はフィルム現像・印画紙への露光・現像も全部自分でやったものです。こういった一連の手間のかかるプロセスも含めて"写真という趣味"を楽しんでいました。
その頃と比べると、カメラの性能がアップしたおかげでピンボケや露出の失敗からはほぼ解放されました。手間のかかっていた現像もPC上で行えるようになったのは大進歩です。純粋に撮影と作品創りに割く時間が増えたのは喜ばしいことですが、逆に寂しさを感じる方もいることでしょう。引伸ばし機で露光した印画紙を現像液を満たしたトレーに入れて竹ばさみでゆらゆら動かす…数秒後に像が現れるまでの緊張感と思い通りの絵が浮き出た時の喜びは他に代えがたいものがあります。
だからと言って「昔は良かった」とは言うまい。望遠での動態撮影でもピントバッチリ、夜桜も手持ちで綺麗に写せるようになったことで撮影できる喜びは増しましたし、失敗して悔しい思いをするのが減ったのは事実。失った楽しみの代りに新しい楽しみも確かに増えています。
と、前置きが長くなりましたが、上述のように技術の進歩により写真という趣味の楽しみ方が変わってきていると感じています。今後、技術がさらに進歩していていくと、今の楽しみ方とはまた違った写真という趣味の楽しみ方が生まれてくると思います。10年後、20年後、さらに50年後に写真という趣味はどんな楽しみ方なのだろう?。今と大して変わらない、それとも趣味として衰退している。いや今とは全く異なる楽しみ方をしているのか。それを想像してみましょう。
想像するだけならタダです。いや、この3連休暇なのでこんなお題でスレを立ててみました(^^;
お付き合い頂けたら幸いです。
書込番号:21962655
8点

写真がより身近になったと思う。
特にスマホの普及で、気楽に気軽に手軽に…絵日記的な要素が強まったように思う。
反面、撮影時の一瞬の理性的思考も必要な時代になったかな?
勿論、アップロードも。
雨と食虫植物です。
不安や不快さを感じた方々、ごめんなさい。
書込番号:21962694 スマートフォンサイトからの書き込み
7点

>今と大して変わらない、それとも趣味として衰退している。
写真というか映像化したものを楽しむ行為はなくならないと思います。ただプリントアウトや印画紙に焼き付けるといったことは無くなってマイクロチップみたいな非常にコンパクトな媒体に保存してスマホが進化したような端末で楽しむようになるんじゃないかと思います。
カメラ機材は規格化されて今の写ルンですのようなものになっていくと思います。ですから各メーカーで性能を競うとかそういった楽しみもなくなって(カメラ機材を)持つことが楽しいとか所有欲みたいなものは既に時代遅れでしょうね。
書込番号:21962799
2点

○松永弾正さん
>写真がより身近になったと思う。
>特にスマホの普及で、気楽に気軽に手軽に…絵日記的な要素が強まったように思う。
スマホ世代は写真をコミュニケーション手段として活用していますよね。インスタ映えという言葉も生まれるくらい写真での情報伝達・共有は一般化ましたが、彼ら・彼女らには"写真が趣味"という意識は全く無いでしょう。あくまで言葉では伝えきれない情報を補足するするための手段であって決して写真が趣味では無い。しかし趣味として撮影した写真より日常会話の延長で撮影した写真の方がより印象深いってことも多々ありそう…
写真が一般化して氾濫している現在、"写真が趣味"と公言している人の写真と、そうでない人の写真の差はなんなんでしょう。"芸術作品"を意識しない一般ユーザーがナチュラルに撮影する写真の方が実は芸術性が高いなんてことになったら、自称"写真が趣味"の我々の存在意義はどこにあるのか?
自称"写真が趣味"を名乗るなら今まで以上に芸術的センスが要求されるかもしれませんね。
書込番号:21962843
4点

>高品交差点さん
未来は写真撮影が下手になって行くと思う。
○距離目盛りも無ければ、披写界深度目盛りも無いカメラが氾濫してます。
これでは初心者が、どうやってそれに気付くのやら?
○本来 暗く写る部分をカメラのコンピューターが、勝手に明るく写してしまう。
それでは、それに気が付かなくて、応用も効かなくなる。
○写真屋さんに通う習慣が減った。
写界屋さんは商品と売る事とセットで
撮影技術を伝授してた。
好例は
文字の綺麗さ
年輩者ほど字が上手い。
年賀ハガキをみれば一目瞭然。
現代は早稲田大学でも
小学校3年生みたいな文字。
カッターナイフで鉛筆削るのだって同じ事。
書込番号:21962882 スマートフォンサイトからの書き込み
4点

趣味趣向の世界,より厳密には自己満足で写真を撮っているので,まあそうしたことはどうでも良いような.写真を辞めたら他の自己満足できる趣味にはまっているでしょう.
カメラが進歩する事は歓迎していますが,だからといって素晴らしい写真が撮れる訳でもありません.ましてや,10年後や20年後は死んでるかも知れませんし,そこまで想像する必要もないように思います.
書込番号:21962908
3点

1.4のレンズでボケすなんてのもなくなるだろうな
スマホカメラが対辺複数眼あれば
自動車の自動運転認識技術で立体認識できるので
仮想被写界深度面を判定してボカすなんて簡単だろうし
書込番号:21962926
3点

デジタル化で表現面では進化したと思ってます
フィルム時代、カラーではモノクロほどプリント時にぜんぜんいじれなかったですが
フォトショップとか使って簡単にレタッチできるようになったのはすごい進化♪
書込番号:21963502
3点

自然を撮るとか異性を撮るとか美味しそうな料理を撮るとかいろいろな被写体がありますけれど、その場にあっても持ち出せない物や時間を保存する手段などとしてカメラを使う。
しかし実際に自分の記憶のままを撮るとか、芸術的な作品を創るとか、自分で絶対に納得できる写真はなかなか撮れないので、うでを研いたり、何度も足を運んだり、いい表情をしてもらうために多少なりとも努力することが趣味なのではと思う。
そもそも自然も異性も料理も不変ではないのですから、その場でいい写真が撮れるカメラができたとしても、その写真の次のもっといい写真が撮れる可能性はでるでしょうし、それを追い求めるのも趣味と言えるでしょう。
結局平凡であるがゆえに、飽きるか諦めるかどっかで妥協するとか締めくくるとかしない限り続くんだよなぁ。
書込番号:21963564 スマートフォンサイトからの書き込み
3点

おはようございます。
いきなり投げっぱなしでは何ですから、まずはスレ主が予想してみます。
(コメントに対するお返事はまた別で書きますね)
1.ダイナミックレンジの拡大
新製品が出るたびに画素数の増加、暗所画質の向上が話題になりますが、ダイナミックレンジについては置き去りにされてきた感があります。日陰に露出を合わせれば日向は露出オーバー、逆もしかり。カメラマンはどちらに露出を合わせるか撮影時に選択を迫られます(HDR合成もあるけど)。ダイナミックレンジが拡大(±2EVずつくらい?)してくれれば、撮影時はオートに任せて家に帰ってから現像時に日陰側、日向側、あるいはHDR合成を選べば良いわけです。それには14bit記録でも足りないでしょうから20bitとか記録フォーマットや現像ソフトの対応も必要になりますが、ソフト側の対応は別に難しくないでしょう。
ダイナミックレンジの拡大を例にしてみましたが、カメラ(この場合はセンサー)の進化により、撮影時に記録できる情報が拡大→写真表現は撮影後に家とかでじっくり試行錯誤して考えれば良い。写真という趣味の楽しみ方はそういう形に徐々に変わっていくと予想します。撮影が簡単になることで写真がつまらなくなるのではなく、撮影時に決めていた項目を後ろに延ばしているのです。それは既に写真という趣味ではないと考える方も出てくるかもしれませんが…
2.以降はまた別途考えてみます。
書込番号:21963821
4点

高品交差点さん
横レス失礼。
松永弾正さん
ハエトリグサはハエを捕るの写真ですが、ハエではなくてハチではないでしょうか?
書込番号:21964154
3点

VR写真展やりたい!
書込番号:21964430 スマートフォンサイトからの書き込み
4点

>多摩川うろうろさん
あ!確かに!
ハエにしちゃ男前やと思ってたんです( *´艸`)
書込番号:21964777 スマートフォンサイトからの書き込み
2点

ずんぐりした胴なのでアブっぽいかも…
アブならハエ目、ハエ亜目まではハエと同じ分類なのでハエとは親戚みたいなもんだね(笑)
書込番号:21964826
3点

〇JTB48さん
>写真というか映像化したものを楽しむ行為はなくならないと思います。ただプリントアウトや印画紙に焼き付けるといったことは無くなってマイクロチップみたいな非常にコンパクトな媒体に保存してスマホが進化したような端末で楽しむようになるんじゃないかと思います。
カメラがどんどんお手軽になっていくように、表示デバイスもシンプル且つ軽量になっていくと思います。自分がイメージしているのは自発光型の電子ペーパー(もちろんカラー)。給電はワイヤレスで行うので充電も不要。非給電時は透明なので窓ガラスに貼り付けても良い。壁紙やテーブルクロスにして気に入った写真をレイアウトするのも良いでしょう。撮影だけではなく鑑賞の仕方もより自由度が高くなっていくと予想します。
〇謎の写真家さん
>未来は写真撮影が下手になって行くと思う。
今時、迫ってくるラリーカーを望遠撮影してジャスピンの写真が撮れても誰も褒めてくれないでしょう。声をかけられても「歩留まりはどれくらい?」とか(^^;。技術が進歩したせいで人間の能力が退化するというのは仕方のないことです。でも現代の人間が昔より狩りの能力が劣っていたとしても、それは単純に退化とは言えないでしょう。代わりに農業など安定して食料を自給できる能力を取得しているのですから。
写真も同様、撮影技術だけが写真の上手い下手の全てではありません。映像で何かを伝えたいという想いをいかに実現するのかが写真という趣味だとしたら、撮影技術はカメラに頼って記録された有り余る情報の中から自分ならではの表現を切り出す能力を磨くというのが近未来の "写真という趣味" になるのかもしれません。機械が人間の代わりにやってくれることが増えた分、機械ではできない人間の感性を磨くことに時間を割ける余裕ができるなら、それもまた写真の進化と言えるのではないでしょうか。
書込番号:21964882
2点

VR写真展いいですね!
オンライン写真展かあ。
書込番号:21965017
2点

>ただプリントアウトや印画紙に焼き付けるといったことは無くなってマイクロチップみたいな非常にコンパクトな媒体に保存してスマホが進化したような端末で楽しむようになるんじゃないかと思います。
ひたすら楽な方に流れて来てるカメラ趣味で、芸術や趣味として踏みとどまれるかどうかそこは、最後の牙城じゃないかと思う。
プリントすると言うのは撮影者にとっての最終回答を提示する唯一の手段だと思う。
VRだの電子デバイスで自由自在に画像を操るのも良いが「じゃあ、オリジナルはどれ?」って聞かれたら答えられないつうのはどうかと思う。
何時「この規格は現在対応しておりません」 「このサービスは終了しました」
ってなるのか分からないものに発表の手段を託す趣味に先があるようには思えない。
書込番号:21966580
5点

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---|---|---|---|
動画との違いは明暗を瞬間で捉える事 |
撮影者の技量を補うカメラ性能には限界が見えてきた |
撮影者がこの瞬間を絵にしたいと云う意思だけは補えんかも |
動画で切り出しても選ぶ焦点距離とアングル、構図は各々の嗜好 |
>高品交差点さん
自分は既存のカメラシステムの
限界は見えてると感じてます
ファインダー、センサー、連写、AF性能
徐々にしか向上しないんでは無いでしょうか?
既存と違うデバイスが生まれる可能性は有りますが
写真そのものも
絵画の複写、模倣に始まる表現や評価
趣味人同士、身内のコミュニティでの披露・批評から
SNSでの共有と云うコミュニケーションの領域を広げるツールに変わりつつ有ります
自己顕示欲を充たすという目的だけは変わらないですけど(笑)
趣味としては広がってはいると思いますよ
即時性や運用領域は銀塩より上でしょうから
この流れは変わらない、既存のカメラ界隈の価値観は
徐々に変わって行くでしょう
すべからく「いいね」の数で
決まるだけじゃ面白くないですけど
結局、発表者が介在している限りは変わらないでしょう
撮る技術より見て選定する事が発表者の眼ですから
AIがそれすら代行するのなら
もう、趣味ではなく作業に為るでしょう
書込番号:21966684 スマートフォンサイトからの書き込み
2点

>プリントすると言うのは撮影者にとっての最終回答を提示する唯一の手段だと思う。
映像作品や音楽等は、随分前から最終回答がデジタルデータなのが一般的だと思いますが、それらは芸術ではないのでしょうか? 先のない趣味なのでしょうか?
たとえばクラシック音楽等(譜面によって残されているもの)は、ある意味「楽典」という規格に基いて記録された「データ」なわけですが、横道坊主さんの解釈では、そんなものは芸術ではないと。(笑)
書込番号:21966916 スマートフォンサイトからの書き込み
7点

すいません、暇といいつつ返信が追いついていませんが、明日からの平日もレス続けますのでお許しを。
●狩野さん
私は10年後、20年後も写真という趣味は続けていると思うのでご縁が無かったということで…(^^;
●ひろ君ひろ君さん
>スマホカメラが対辺複数眼あれば
>自動車の自動運転認識技術で立体認識できるので
>仮想被写界深度面を判定してボカすなんて簡単だろうし
おぉ、こういうレスを待ってました、これに乗っかっることにします。
未来予想のその2です。
2.映像の3D記録が一般化する
現状では縦横2次元での記録ですが、これに距離情報が加わると予想します。この技術に関しては自動運転技術からの流用が期待されます。一番ありそうなのはひろ君ひろ君さんが書かれたステレオカメラによる測距、あと暗所ならレーダー波による測距、及びそのハイブリッド。あと過渡的にはパナが進めている4Kフォトを応用したフォーカスセレクトの技術も有用でしょう。
主レンズの両脇、数cm離れた位置に測距用のレンズを配置して、撮影時はピクセル単位に被写体の距離も記録します。そして現像時にはメインとする被写体を選択したら後は絞り値を現像ソフト上で選択(スマホ用ソフトなら"ボケ具合"というスライダーかな)すると、シミュレーションで距離に応じたボケ味を生成する。
これなら、F1.4とかの明るい・大きい・重い・高価なレンズを購入しなくても、パンフォーカスで撮影して後からシミュレーションでボカせば良い。スマホでもF1.4やF1.0のボケ味を取り入れたポートレート撮影が可能になります。要するに絞りの選択を現像時に行う時代がいずれは来るだろうということです。これは写真という趣味の進化、それとも退化どちらでしょうか?
書込番号:21967194
1点

一口に絵画…でも、油彩・水彩・水墨…いろいろありますよね。
さらに厳密に見れば広い広い!
写真も同じでしょ( *´艸`)
撮影機材やデータがいろいろあっても、撮り手の意識次第だし、魅力があれば趣味足り得ます。
あ、ハエトリグサが採ったのはアブです(´□`; 三 ;´□`)
書込番号:21967798 スマートフォンサイトからの書き込み
3点

なにはともあれ
今はステキな時代かと思います。
銀塩からデジタルになっても
不易流行ですね。
書込番号:21968277
1点

現状では縦横2次元での記録ですが、これに距離情報が加わると予想します。この技術に関しては自動運転技術からの流用が期待されます。一番ありそうなのはひろ君ひろ君さんが書かれたステレオカメラによる測距、あと暗所ならレーダー波による測距、及びそのハイブリッド。あと過渡的にはパナが進めている4Kフォトを応用したフォーカスセレクトの技術も有用でしょう。
-----
一般化はまだだけど、製品化は既にされてるよね。
要するに絞りの選択を現像時に行う時代がいずれは来るだろうということです。これは写真という趣味の進化、それとも退化どちらでしょうか?
------
カメラの進化であって写真の進化では無いですね。
もちろん退化でも無い。例えばその距離情報や深度シミュレーションを組み替えて、「奥にあった物を手前の物と同じ位置に見せる」とか出来たら写真の進化と言えるかも。
もしくは時間によって深度やピント位置が変わり続けて、静止画なのに動的な作品にするとか。
深度シミュレーションだけじゃなくてSSシミュレーションとかも出来ると思うなぁ。
趣味の進化というのはよく分かりませんね。
実際、いまでも現像もプリントも出来る訳で、選択肢が広がっただけだと思います。
書込番号:21969059 スマートフォンサイトからの書き込み
2点

こんばんは。
〇あふろべなと〜るさん
>フォトショップとか使って簡単にレタッチできるようになったのはすごい進化♪
人によって線引きはいろいろでしょうけど、電線を消したり写ってない物を追加したり、絵画調にしたりと何でもあり過ぎて銀塩からの人間だと最初は戸惑いました。でも昔も多重露光とかしてたし、今は自分が撮影した画像素材を使うならOKってスタンスです。一時期ハマった新海誠風の加工写真を貼ります。それまで過度な加工は否定派でしたが結構楽しかったので今は容認派です。
〇ドノーマル・カスタムさん
>そもそも自然も異性も料理も不変ではないのですから、その場でいい写真が撮れるカメラができたとしても、その写真の次のもっといい写真が撮れる可能性はでるでしょうし、それを追い求めるのも趣味と言えるでしょう。
カメラの進歩によりワンチャンで傑作が撮れる可能性が増えたとしても、何度も現地に足を運んだりとか撮影機会を増やす労力を惜しまなければ、それが報われることがきっとある。仮に成果が出なかったとしてもそれもひっくるめて趣味として楽しめばいいってことですね。
〇多摩川うろうろさん、他
ハチ関連ネタはスキップ!
(気が付かなかった)
ミッコムさんへの返信が長くなりそうなので一旦切ります。
書込番号:21970187
0点

>高品交差点さん
僕的にはそこまでは想定していなくて
モノクロプリントでの焼きこみや覆い焼きすらカラーでは難しかったので…
そういうレベルの加工が自由にできるだけですごい進化と思ってますよ
書込番号:21970203
1点

ミッコムさん、2個分まとめレスします。
>VR写真展やりたい!
VRは自分も興味あります。例えば富士山の山頂で初日の出をVRで撮影。回りを見渡すと歓喜の表情を見せる登山者達、後ろを振り向くとまだ薄暗い紫色の空。こういう写真をいつか撮ってみたいですね。
アクションカム系ではボチボチ出てきてはいますが、本格的なスチル撮影ではまだまだキワモノ扱いの感があるのか普及はまだまだ先って感じなのが残念です。
3D記録について
>一般化はまだだけど、製品化は既にされてるよね。
それは知りませんでした。まぁ素人がすぐ思いつくことですから既に実現されていても不思議ではありませんね。
>もちろん退化でも無い。例えばその距離情報や深度シミュレーションを組み替えて、「奥にあった物を手前の物と同じ位置に見せる」とか出来たら写真の進化と言えるかも。
パナのフォーカスセレクトなら、花の接写とかで花弁の一番奥から手前まで、本来ならほんの数mmしかない被写界深度の単独の画像を合成して花全体に合焦したかのような画像を生成できないのかな?(そこまではまだ無理でしたっけ)
あと、最近流行りの瞳AFにしても、片目だけでなく異なるフォーカスの両目にはジャスピンで他はボカすって技法も可能になります。1枚の画像の中で複数のフォーカスポイントを混在させることができるなら、新しい写真表現も増えることでしょう。
書込番号:21970333
0点

>高品交差点さん
>VR写真展
例えば、グランドキャニオンとかにドーンと自分の作品を飾るとか、有名写真を3D化した背景に飾るとか、主に展示場所の工夫、もっと自由で安価でコンテンツとして面白い写真展をやりたいです。
>1枚の画像の中で複数のフォーカスポイントを混在させる
良いですね!面白い!
生データから2焦点画像を作る事に面白さがありますね。
書込番号:21970490 スマートフォンサイトからの書き込み
2点

〇横道坊主さん
>プリントすると言うのは撮影者にとっての最終回答を提示する唯一の手段だと思う。
プリントだと作品によって、光沢紙を選ぶか半光沢を選ぶかも表現する上での選択肢になります。白フチを付けるかフチなしにするか。実際見た時の印象が大きく変わります。あともちろんサイズも重要です。六つ切り・四つ切・半切のどれにするか。絵画だとほんの数cm角の作品もあれば壁一面の大作もある。サイズ自体が表現の一要素なんですよね。自分が写真部だった時は、確かにそこも意識して作品を作ってました。
翻って今だと、同じ作品をスマホで見る人がいれば、会社の安物ノートPCの液晶で見る人もいる。キャリブレーションをキッチリ行ったモニタで見る人もいれば、50インチ超えの4Kテレビで見る人もいるかもしれません(だとしてもたかだか829万画素)。表示サイズやディスプレイの画質を見る側の環境に丸投げしている現状って、見る側の自由度は増したけど、作者が伝えたい意図の何割が本当に伝わっていることやら。
そいういった意味では賛同、でもVRをプリントするバカバカしさは上の比ではありませんので部分的には賛同できますが、それ以外は同意できません。
書込番号:21972378
1点

>高品交差点さん
> 翻って今だと
ここは、確かに、表現の方向性によっては、却って、不自由になった部分だと思います。
似たようなことは、文字テキストにもあって、フォント属性等をどこまで規定できるか、というのがあります。
この辺を緩和する試みの一つとして、データ自身が、表示環境とやり取りして、最も表現意図に叶ったレンダリングをするような手続き(プログラム)を予め仕込む、という考え方があります。
画像データについても、どう見られたい、を明示する(そして、表示デバイスにベストエフォートをさせる、どうやっても基準に合わないなら表示されることを拒否する)機構があると良いですね。
横道坊主さんが例示された、VRは、見る側に主体的なナビゲーションを求めるので、画像(写真)でも映像(動画)でもないものだと思います。初期の写真のように、表現としての芸術性を、まだ?、認められていないもの。なので、オリジナル性も、写真とは異なると思います。
それが表現として確立するには、何かのブレークスルーが必要で、それはまだ出来ていない、というか可否自体が定かではないものだと思います。
書込番号:21972444 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

〇光速の豚さん
>徐々にしか向上しないんでは無いでしょうか?
なので設定を10年後、20年後、さらに50年後にしてみました。今まで自分が書いた予想は10から20年後くらいを想定しています。
>趣味としては広がってはいると思いますよ
書かれていることと趣旨は違うかもしれませんが、自分の場合は動画ですけどツァイスのTouit12mmの作例をUPしたら閲覧者の8割は海外ユーザーでした。こういうのって凄くテンション上がります。自分の作品が何か賞を取ったわけでもないのに海外でも気軽に見てもらえる、あるいはその逆ってことが日常で起きるのですから、趣味としての楽しみ方が広がっていると思います。
>AIがそれすら代行するのなら
>もう、趣味ではなく作業に為るでしょう
カメラや現像ソフトがプロの撮影技術・現像技術をAIで代行してくれる時代はいずれ訪れるでしょう。ユーザーはプロカメラマンを同行して撮影されたかのような最上級の作品を提示されます。
PC「彼女さんを秋山庄太郎・篠山紀信・野村誠一、ゴッホ、その他テイストで作品化してみました。」、高品「15番目の森山大道がイイね、これリビングに飾ろう。でも彼女に送るのは秋山庄太郎テイストので。」みたいな未来…
もはや写真という趣味は絶滅?チェスがAIに負けてしまうようなことが今後写真でも起きるのだとしたら、今のうちに写真を楽しんでおくことにしましょう(^^)
書込番号:21974409
0点

写真がストレートに写真としてのみ生き残っている世界は相対的にごく僅かで、それを嘆くのか受け入れるのかという問題。僕は後者です。
そもそも、写真が芸術に与えた最大の影響は「ローテク化、アマチュア化」です。つまり、工業機械とは楽する為、効率化を図る為の物であり、それが芸術に一歩足を踏み入れた(認められた)時、芸術作品における技術力の否定となった訳です。
芸術写真登場以降に残ったのは「新しい表現かどうか」という価値観で、つまりそれは芸術写真自体の矮小化を予感できる物であったし、今後もそれは進んで行くでしょう。
まぁ、単純な話、いくらでもコピーできる写真で「一点物」をうたうのも虚しい話です。
それよりも、些細な歴史も忘れない世界(ブログ然り、YouTube然り)となった今、その表現の先進性は歴史が勝手に証明してくれる訳で、鑑賞環境での再現性云々はどうでも良いでしょう。
ただし、表現としてではなく、物としての愛着は上記の状況とは別に高まるのでは無いかと思います。
つまり、唯一無二なのは物体としての目の前に現存する写真(写真が印刷された紙)そのものであって、コンテンツとしての写真では無いという事だと思います。
書込番号:21975016 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

連投ゴメン!
ストレートな写真表現が矮小化するのは避けられない運命と分かったとしても、別に悲嘆するばかりでも無くて、言語から文章、文章から本、と言うように全体として何かを表現できれば、それはちゃんと「一点物」として存在できます。
芥川賞のニュースでも話題になってますが、それ自体、些細な問題です。結局総体として優れていなければ評価されない訳ですし。
逆に、コンテンツとしての写真を一点物として所有権を主張できたとして、音楽で言うJASRACみたいな末路は良いんだか悪いんだか。芸術家は清貧で良いんじゃねーか?と思いますし、優れたイメージメーカーとしてはいくらでも仕事はあると思いますしね。
書込番号:21975030 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

>ミッコムさん
> 全体として何かを表現できれば、それはちゃんと「一点物」として存在できます。
それは「何か」の範囲に依ると思います。
例示された「本」にしても、日本語等では、縦書きと横書きがあって、コンテンツのレイアウトとして、縦書き限定(横書き表示不可)みたいな制限を作者他が付ける場合があります。
商売絡みだと、テレビ放送の「編成権」とかですね。
スレ主さん(とか横ちゃん?)は、写真(画像データ)の表示において、「何か」から抜け落ちる部分の「価値」を案じているように感じました。
書込番号:21975200 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

>あれこれどれさん
>それは「何か」の範囲に依ると思います。
どーゆー事でしょう?
>「何か」から抜け落ちる部分の「価値」を案じているように感じました。
乱暴な事をいうなら「それは勘違いだよ」という説明が↑の話です。
個人の郷愁なら全くもって同感だけどそれは失われつつある価値に対して同等に感じるモノであって、写真という表現媒体を普遍的に論じているなら、写真が芸術にもたらした破壊が、芸術としての写真にももたらされたのは既に過去の事実なわけですから、その作用自体が写真の価値だろうと言う事。
伝統的な高度に洗練された美術的芸術を、カメラという工業機械が簡単に描写力で上回って、それは大した訓練もなく出来るようになった。その写真がまた、高度に洗練された美術のように振る舞おうってのは、表現が形骸化するときのそれであり、写真の普遍的な価値ではないと思います。
書込番号:21976152 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

>ミッコムさん
> >それは「何か」の範囲に依ると思います。
>
> どーゆー事でしょう?
ある物理的な表示フォーマットを前提にした「作品」とかを考えてみるとわかると思います。
例えば、ケータイ小説とかです。あれをPCの大きな画面で見たら、…な代物が続出だと思うのですが、ジャンルとして確立しました。
出版社の人達は、単純に、連載小説の単行本化のような感覚で取り扱おうとして、その手強さに気づいたようです。つまり、文字コード列としてのテキストのみは、「何か」を欠落させていたわけです。
そういう「何か」の価値のことです。
> その写真がまた、高度に洗練された美術のように振る舞おうってのは、表現が形骸化するときのそれであり
個人的な仮説としては、ディジタルになって何が変わったかというと、「素材」と「作品」の境界が動いて、より動的になったことだと思います。
つまり、データとして落としただけのものの素材性が銀塩よりはるかに強くなり、一種の多型を実現する余地がさらに広がった、と思います。それを、「表現の形骸化」と括るのが適当か、というのが私の感じた違和感です。
「素材」と「作品」と言えば、音楽の楽譜なんかも、発明以前は、ライブ演奏が全てであり、「素材」と「作品」は未分化だったと言えます。口承文学とその文字化の関係も。
楽譜があることで、「素材」と「作品」が、分節されたと思います。「楽譜」の演奏は、ある意味でコピーかもしれませんが、楽譜其の物の書写とは違う意味があると思います。
画像でもディジタル化された元データとそれを表示することは、楽譜と演奏と同じような関係だと思います。
P.S.
余談も余談ですが
古代ギリシャの話です。
最近の連中は文字に記すことだけに没頭して、本来の口承の豊かさを忘れている、嘆かわしい、と記した(だから残っている…)人がいるそうです。
> 個人の郷愁なら全くもって同感だけどそれは失われつつある価値に対して同等に感じるモノであって
を読んで、その逸話を思い出しました (^_^;)
書込番号:21976577 スマートフォンサイトからの書き込み
2点

すいません、まだ最新のレス追い付けませんが順番ということで。
〇ハイディドゥルディディさん
オーディオの世界だと、ポケットラジオのモノラルの小型スピーカーで音楽を聴くこともあれば、部屋まで徹底的にチューニングされた環境で生演奏に近い音質で聴く人もいる。一方で、再生時に低音を極端にブーストするとか、オリジナルに忠実でなくても楽しめればOKっていう再生文化が既に根付いていると思います。楽譜もデジタルデータですが、指揮者や奏者ならではの表現が加わることも許容されていますし、聴く側はそれ自体を楽しんでいますよね。
そういった面で、デジタル化後の写真はまだ表現方法・評価方法について、作者も鑑賞する側も模索中って感じがします。横道坊主さんのご意見も私の考えと100%一致するものではありませんが、全否定するものではないと受け取りました。
書込番号:21976675
1点

>あれこれどれさん
説明ありがとうございます。良く分かる話ですね。
二次利用、三次利用に耐えうる作品として作家も考えるべきと言う側面もありますが、二次利用、三次利用を演出した作家の問題と思ってます。
まぁ、でも、その「想定外」は歴然と存在するけども表現者と鑑賞者のギャップなんてのはあって当たり前の物なので、そんなのは写真でわざわざ言う話では無いと僕は思ってます。
人間関係とは想定外と誤解の連続であーる(^^;)
ライブで、アリーナ席と二階三階席のギャップなんて話題にあがりませんからね。
当たり前だもん。
ただし、解決しようとする意志自体は尊重します。
照明や鑑賞距離はプリントしても鑑賞者に委ねられる訳で、「プリントが最終回答」ってのは個人のこだわりであり、無節操なあきらめでもあると思います。
>高品交差点さん
ご自分のペースで♪
書込番号:21977162 スマートフォンサイトからの書き込み
2点

おはようございます。
明日から夏休みでしばらく不在になるのでちょっと駆け足で。
出先でも書けたらレスしますね。
〇松永弾正さん
>撮影機材やデータがいろいろあっても、撮り手の意識次第だし、魅力があれば趣味足り得ます。
もちろんその通りだと思うんですが、最近ふと疑問に思うようになったのです。
ここ何年か、彼女にもα5100を買わせ、観光地に行ったときなど一緒に写真を撮ってました。風景やら植物やらのスナップ写真を撮って、iPadに転送して鑑賞するのですが…
「この写真どっちが撮ったんだっけ?」
一緒に歩いて同じ場所でいいねと思ったシーンを撮るので似ちゃうのは仕方がない。しかも時々センスで負ける(^^;。自分は趣味で撮っているつもりだけど彼女は綺麗だから撮ってるだけ。でも成果物は似たり寄ったり(単に自分が下手なだけと言われたら身も蓋もありませんが)。やってることも成果物も同等で片方は趣味で片方は趣味じゃない、自分のやってることは本当に趣味なんだろうかと?
一応元写真部として、12mmの超広角で撮ったりF1.4で背景をぼかしたりして「これはキットレンズじゃ撮れないだろう」と頑張ってはみるのですが、それは上手い下手の本質じゃないし、そのうちスマホでも同等のものが写せるようになるだろうと考えると虚しくなるだばかり。
カメラが進化するほど下手な人の肩身が狭くなる一方、そんなことを吹き飛ばすようなワクワクするような進化がないものか?。というのがこのスレを立てた理由のひとつです。
書込番号:21977381
1点

>ミッコムさん
> 「プリントが最終回答」ってのは個人のこだわりであり、無節操なあきらめでもあると思います。
確かに、 「プリントが最終回答」というのは、スペクトルの上の恣意的に決めた場所にクリアカットな「俺様ボーダーライン」を設定する行為なのですが、単純に、それを嗤うことが、スペクトルの存在自体を軽く見ることになるとすれば、なんだかなあ、と思います。
俺様ボーダーライン(に見えるもの)を設定する人は、問題(の存在)自体を理解していないのか、熟慮の末の結論なのか、というのもあるとは思いますが(^_^;)
> >高品交差点さん
> ご自分のペースで♪
おなじくです。
書込番号:21977416 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>ミッコムさん
> 芸術作品における技術力の否定となった訳です。
その「技術力」というのは、(大)失敗をしない技術力のことではないでしょうか?
失敗をしない=成功する、ではないと思うのですが?
もちろん、失敗から学ぶ、というのはあって、失敗の繰り返しから生まれた(ある種)暗黙知的なもの(経験値)が成功の元になることもあるとは思います。
失敗しにくくなったことに安住してはいけないわけで、その結果が、「新しい表現かどうか」に向かったのだと思います。それを「矮小化」と捉えるのだろうか、とも感じました。
P.S.
芸術ということではないですが…
なお、初期の写真技術なんて、不安定かつ利用可能な範囲は檄狭もいいところで、確実性のためには、画家の方が重宝されたようです。探検とかです。
それらの絵画も今日では、美術的な観点から見られていると思います。
個人的な経験だと、前世紀には、デジカメは暗所に弱いから…、ということで、銀塩カメラも持って出てました。メモリがアレで撮れるコマ数も限られていたし。結果、歩留まりは銀塩の方が良かった時代もありました。
書込番号:21977614 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>あれこれどれさん
>単純に、それを嗤うことが、スペクトルの存在自体を軽く見ることになるとすれば、なんだかなあ、と思います。
いやぁ、ごめんなさい、嗤っては無いんです。
個人の気持ちと、写真論の本流はズレていて、気持ちとしては分かるけど、一般化すると間違いだという指摘です。
僕もプリントされた写真が好きだけど、それは個人の趣味だと思います。特にウェットプロセスで丁寧にプリントされた写真はコンテンツとしてよりも「上質な物」として素敵です。
>その「技術力」というのは、(大)失敗をしない技術力のことではないでしょうか?
それはそれで面白い話だけど、僕が言ったのはもっと描く技術という実際的な意味です。
つまり、芸術写真登場以前の絵画には、真似できない!凄い!の大部分で、筆のタッチとかの作家の技術が支えてた。でも写真だと同じ被写体を複数人が同じ描写力で撮れる訳で、何を撮ったのか?何故撮ったのか?で、評価される訳です。そういう価値観を芸術写真が芸術に持ち込んだ結果として、凄い技術だけだとただのビックリ人間とかスポーツと同じ扱いで、芸術としては評価対象から外れたということ。
書込番号:21978048 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

カメに永遠に追い付けないウサギの気分です。
〇hirappaさん
"不易流行"って言葉、初めて知りました。
オーディオをカメラも、アナログからデジタルに変化した時代をリアルタイムに経験できたっていうのはラッキーなことなのかもしれませんね。
〇ミッコムさん
>例えば、グランドキャニオンとかにドーンと自分の作品を飾るとか、有名写真を3D化した背景に飾るとか、主に展示場所の工夫、もっと自由で安価でコンテンツとして面白い写真展をやりたいです。
そういうイメージでしたか。東京ドームの天井をスクリーンにして惑星探査船が撮影した火星や土星を実物大(視野的にって意味)で表示するとか楽しそうです。
VRといえば、高校生の頃360度全周の写真を撮って、プリントした写真をセロテープで繋ぎ合わせて最後は円筒状(画像は内側)にして完成。中に頭を突っ込んでVR遊び(当時その言葉はありませんでしたが)をしてました。なので自分にとってVRってそれほど目新しい技術ではないんです。ただ凄く面倒だったことが簡単になっただけの存在。その辺が横道坊主さんとの感覚のズレに繋がったのだと思います。
>生データから2焦点画像を作る事に面白さがありますね。
技法としては古くからある多重露光ですが、秒数十コマの高速連写での撮影ならAFモード:瞳(両目)なんてすぐできそう。さらにフォーカスポイントを増やして、モデルさんの鼻から耳までを合焦させつつ背景はF1.4開放とか、1枚の画像に複数の被写界深度を混在させる表現も可能なはず。
少し戻って
>深度シミュレーションだけじゃなくてSSシミュレーションとかも出来ると思うなぁ。
電子シャッターが主流になるでしょうから高速SSで数秒間連続撮影して瞬間を切り出すもよし、風になびく髪を表現するために1秒とかのスローシャッター(数十から数百枚の画像を合成)を撮影後に選ぶことも4Kフォトの延長技術で可能になると思います。その際も目だけはSS1/1000で髪は1秒とか、複数のSSを1枚の画像に混在させる表現技法もアリでしょう。これはカメラの進化+写真の進化といえるでしょうね。
書込番号:21978115
1点

>ミッコムさん
> 一般化すると間違いだという指摘です。
ここは了解です。
銀塩時代には、リバーサルvsネガプリント論争というのがあったそうで、このサイトでも、リバーサル云々を引き合いに出される方が時折おられます。不謹慎ながら、思わず失笑してしまうのですが…。
でも、少し考えてみると、かなり大きな問題について、その方なりの意見を述べておられたのだな、という感慨というか自戒みたいなものです。
> 真似できない!凄い!の大部分で、筆のタッチとかの作家の技術が支えてた。
写真と絵画の属人性の現れ方の違いの話ですね。ここも、個人的には、関心を持っているところです。^_^;
要するに、特性の違いであって、それをどう活かすかの話だと思います。そこに「矮小化」みたいな(おしなべての優劣を含む)観点を持ち込むことには、どうしても、違和感を感じてしまいます。言葉尻に突っ込むようですが…(^_^;)
変な話、「なんでも鑑定団」に写真が出品されたとして、その真贋のチェックポイントは、絵画とはかなり違うはずです。使われた機材とか描かれた(写り込んだ)モノのアリバイとか材質の劣化状況のようなものは共通性があるとして、絵画でよくある「ここが雑ですね。あまりにも酷い」みたいなのは、ないだろうな、ということです。基本的に「何を撮ったのか?何故撮ったのか?」で、真贋判定がされると思います。「◯◯先生なら、こういう手ブレはない」、みたいなことは、多分、ないと思います。真作には違いけど、間違って残ったボツ作品の可能性も否定できないので。
結局、そういうもの、として捉えるしかないのかな、と思っています。
P.S.
テキスト(文章)の属人性、というのはよく知られていると思いますが、脚本(シナリオ)になると、そこが和らぐので、フェーズ分けしない分担執筆が、それなりに、できるそうです(プロットとかメインキャストの設定は、予め、あるとして)。絵画と写真の関係も、どこか、似たように感じます。
もちろん、ノベライズするなら、話は別だそうです。(^_^;)
書込番号:21978146 スマートフォンサイトからの書き込み
2点

>あれこれどれさん
矮小化とかって言葉の使い方には、注意が必要ですね。
要は、平均化とか、標準化とか、記号化とか、そういう事です。
一枚の写真の価値は限りなく無くなるけど構成要素としてはちゃんと役割を果たすし必要不可欠になるような使い方。
言語で言えば「あ」と「ん」はどっちが優れているか?みたいな目線なんて無い。でも同時に『「あ」りがとう』とか『ごめ「ん」』とか役割はちゃんと存在する。
入れ替えられない。「んりがとう」「ごめあ」じゃあ意味を成さない。
こういう事を言いたいわけです。
もちろん同じ「あ」も「あ‘’〜!!」とか「あ、、、」とか有るけどね。
この全体で何かを表現する為に、一枚の価値が低くなる事を矮小化と言いました。馬鹿にしてるわけでは無いんですよ。
書込番号:21978441 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

皆さん、こんばんは。
夏休みの旅行から帰ってきたので続けます。
実はミッコムさんが「矮小化」と書かれたレスの内容が良く理解できてなかったのですが、その後のあれこれどれさんとのやり取りを読んでいくうちに趣旨が理解できました(たぶん)。お二人と考えが違うのかなという部分もありますが、まずは切り出して返信する形ではなく、近未来の予想という本スレの趣旨に沿って書いてみます。
■ディスプレイの表示能力がセンサーの記録能力に追い付く(または超える)
現状は撮影能力と表示能力があまりにもアンバランスだと思います。センサーの解像度はデジカメ創成期のQV-10でVGA相当、当時のPCモニタはCRTが主流でしたが、例えばNanaoの17インチCRT T560iの解像度、画質と比べてデジカメ側の解像度・画質は圧倒的に劣っていました。
その後、センサーの解像度・画質はイケイケドンドンで進歩してあっと言う間に逆転して、今や解像度なら2千万画素越えは当たり前、高級機なら4千万画素オーバーという時代になりました。一方ディスプレイの方はというと、店頭ではHD(216万画素)と4K(829万画素)が半々程度?。解像度に関しては記録能力に対して表示能力が1/10以下とか極端に低いといういびつな時代だと言えます。
テレビを例にするとわかりやすいと思いますが、昔のSD画質のソースをHD解像度のテレビで見た時「昔はこんなに画質が悪かったのか」感じたことでしょう。またHD動画を4Kモニタで見ちゃうと「HD画質は最初は凄いと思ったけど4K画質を知っちゃうともう戻れないな」となります。
同様にカメラの画質を正当に評価をするには「記録能力≦表示能力」である必要があるのだと自分は考えます。現状は「記録能力>>表示能力」ですよね。こんな状況では「スマホもD850の画質も大して変わらない、スマホで十分だね。」という意見もごもっとも。
もし4千万画素オーバーをちゃんとピクセル等倍で表示できるディプレイがあるなら、たとえ30インチ程度だったとしてもD850で撮った写真は「一体どこまで細かく写っているのか底が知れない」と感動できるでしょうし、スマホの写真だと「パッと見は綺麗だけとちょっと近づいて見たらクレヨンで描いた絵みたい、やっぱデジイチは凄い」と正当に評価されると思います。
デジカメが主流になってまだ10数年足らず。現状ではセンサー側の進化が顕著ですが、これは写真のデジタル化の過渡期であって、今後数十年レベルでは表示側の性能が記録側に追い付き、追い越す時代も来ると予想します(この件については希望の比重が大きいですけど)。
その前提でミッコムさん、あれこれどれさんのレスに返信するつもりです。では、今日のところはお休みなさい。
書込番号:21990022
1点

〇あれこれどれさん
>似たようなことは、文字テキストにもあって、フォント属性等をどこまで規定できるか、というのがあります。
ウィンドウサイズやフォントサイズなどを見る側の環境に合わせて自由に選べることが印刷物からの大きな進化ですが、印刷物のようにフォントの選択やレイアウトなど、デザイナーの意図を盛り込むこと(再現させること)が困難になってしまった。メリットが欠点にもなってしまったわけです。
ページデザインを限りなく正確に伝える技術としては既にアクロバットがありますが、通常のWebブラウザでコンテンツを見ることに慣れてしまった後では、返って自由度が低すぎて面倒という印象しかありません。
で、写真も同様なんだから受け入れるべし、これがデジタル時代の写真というものなのだ。という考えには賛同しかねます。前レスで書いた通り、現状の画像表示技術が低すぎるだけでまだ結論を出すには早いというのが自分の考え。
>この辺を緩和する試みの一つとして、データ自身が、表示環境とやり取りして、最も表現意図に叶ったレンダリングをするような手続き(プログラム)を予め仕込む、という考え方があります。
例えば実寸表示。オンラインショッピングで商品を実物大で見たいとしても、現状のブラウザではできない。昆虫図鑑・野鳥図鑑だって実物大で見てみたいって需要も低くないでしょう。皆さんはそう思ったことはないですか?。こんなの焦点距離・撮影距離・センサ解像度(dpi)、ディスプレイの解像度(dpi)の4つのパラメータがあれば実現できるはず。Adobeあたりカメラメーカに働きかけて規格化して、ついでにWebブラウザも作ってくれないだろうか。
これが実現できるなら、写真の希望鑑賞サイズを画像に埋め込むことも可能になります。印画紙時代の良さをデジタル時代でも取り戻すための技術革新があっても良いと思います。写真のデジタル化の時代はまだ始まったばかりで、今後の進化により写真そのものの概念や趣味としての楽しみ方が変わってくるものと予想します。
書込番号:21993794
0点

>表示能力が1/10以下と
肉眼の分解能から、分解能ベースで4Kになる条件は意外と少ないです。
特にテレビ視聴であれば、分解能ベースでは2Kですら意外に達成し難いぐらいです。
また、銀塩写真の時代は出力の主流が銀塩のプリントでしたが、大部分はL判などサービスサイズですから、鑑賞距離と鑑賞サイズの関係で、100~200万ドット(※画素ではありません)相当かな?と。
書込番号:21994763 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

肉眼の分解能の観点では4Kは必要ないかもしれませんが、ピクセル数が増えれば面積あたりのダイナミックレンジが増えるので、視覚的にはかなりの差が出てくるのではないでしょうか。
たとえばデジタルサウンドで一般的なダイナミックレンジ16bitは、通常の音量では問題ありませんが、非常に小さな音量になると、人間の感覚の感度のほうが勝って音質の荒が目立つようになります。
視覚の場合も、画像内の暗い部分を注視する等すると、はっきり差が出るのではないかと思います。
書込番号:21994819 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

すみません、ダイナミックレンジが増えるというよりも、階調が増えるというべきでしたね。
書込番号:21994827 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

>画像内の暗い部分を注視する等すると、はっきり差が出るのではないかと思います。
今のデジイチの広大画素ですら感度的に怪しいですし、
記録再生規格においても、現状では「階調記録のケア」が足りませんね。
Jpegに近い使い勝手のRAWが世間一般の主流になるようなことがあっても、暗部階調のための絶対的な感度不足の問題は永く残りそう?
書込番号:21994870 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

誤
Jpegに近い使い勝手のRAW
正
Jpegに近い使い勝手で且つ「RAWの生データに近いダイナミックレンジを維持できる」記録規格
書込番号:21994878 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

>高品交差点さん
コメントありがとうございます。
直接の答になっているかは、?なのですが…(^_^;)
考えるべきこととして、他の方から指摘のある、肉眼の解像度(の限界)というがあります。アップルのレチナディスプレイは、まさに、そう言う意味のネーミングです。
そうなると出てくるのが、銀塩プリント時代でもあったことだとは思いますが、一目でわかるもの、部分に注目して初めてわかるもの、の処理です。
ディスプレイとなると、単純に目を近づけて、とは行かなくなるので、(一般にナビゲーションと呼ばれる)表示デバイス操作が必要になります。このことが、写真の鑑賞・評価に(不可逆的な)変化をもたらすのでしょうか?
変化をもたらすなら、今は、プリント投稿に限られているらしい、フォトコンにも、ファイル投稿のカテゴリーが設けられるかもしれません(笑)
あるいは、スレ主さんが考えておられるように?、作者が望む鑑賞スタイルを表示デバイスに強制する方が、主流になるかもしれません。
なお、実用的記録ということだと、焦点位置の移動とか8Kコンテンツとかは、まさに、ナビゲーションありきのようです。
8K動画の使い方として、隠れている断層を見つける、とか、やっていますね。
書込番号:21995426 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

おはようございます。
きのうは庭のメンテ疲れで早々に寝てしまったので早起きしてのレスです。
〇あれこれどれさん
>直接の答になっているかは、?なのですが…(^_^;)
すいません、実寸表示の話への持って行き方が強引過ぎました。あれこれどれさんが書かれたのはスタイルシートの技術を拡張して表示環境に応じて動的にタイポグラフィ(レイアウトも含む)を制御するようなイメージってことで合ってるでしょうか?。実寸表示はこれを逆手に取って、動的制御で環境によらず固定サイズで表示することも可能だろうというアイデアでした。
>考えるべきこととして、他の方から指摘のある、肉眼の解像度(の限界)というがあります。アップルのレチナディスプレイは、まさに、そう言う意味のネーミングです。
これについては一旦戻ります。
〇ありがとう、世界さん
書かれていることは一般論として正しいのでしょう。家では55インチのテレビで地デジやブルーレイで映画とか見ますが、解像感については全く不満はありません。しかしPCで写真とかを見る場合は不満なんです(超少数派のようですが)。今年31.5インチの4Kディスプレイ買いましたが、これまで26インチのHDディスプレイと比べて解像感は圧倒的に上がって感動。もうHDには戻れません。
それでもα6500の24Mから約8Mにダウンコンバートして表示しているわけで、「もし記録された情報をピクセル等倍でトリミング無しで鑑賞できたらあと3倍は感動できる?」みたいな感じです。まあ、これは8Kが普及してくれれば概ね解決ですが、望むユーザーが少ないのであれば時間がかかりそうです。
写真と映画の鑑賞の仕方は全然違って、映画だと基本離れて一定距離で鑑賞。写真は絵画と同様、離れて全体を見る→近づいてディテールを見たりします。この時、画素を感じてしまうのは論外、斜線にアンチエイリアスがかかってボケた表現になっているのが見えちゃうのもイヤ。離れて拡大して見れば良いというのは分かりますが、どうもデジタル時代の表示デバイスとの付き合い方に馴染めていないようです(^^;
まだまだ答え切れていませんが、この辺で。
書込番号:21997304
0点

続きです。
〇あれこれどれさん
>ディスプレイとなると、単純に目を近づけて、とは行かなくなるので、(一般にナビゲーションと呼ばれる)表示デバイス操作が必要になります。このことが、写真の鑑賞・評価に(不可逆的な)変化をもたらすのでしょうか?
以下のレポートを見る限り、4000万画素クラスの画像データを31.5インチの8Kディスプレイで編集する程度であれば、特別なナビゲーション無しでも実用になるようです。
https://www.sankeibiz.jp/business/news/171212/bsb1712121100003-n1.htm
-----記事から引用ここから-----
例えば高画質の人物写真を縮小して表示すると、細かいピントまで確認できず、等倍で表示すると顔の半分などの一部しか表示されずに全体の構図をつかめない。縮小と拡大を繰り返しながら作業をすると時間がかかる上に、ピンぼけに気付かないで納品するミスを誘発してしまう。
-----記事から引用ここまで-----
似た構図の写真を何枚も撮って微ブレしたやつを捨てようなんてとき同じことをしますが、ほんの十数枚をチェックするだけでも面倒で嫌になります。プロならこれを数百枚、数千枚の画像に対して行わなければならないわけですから大変です。趣味なのでこの作業の軽減のために50万は出せませんが、高解像度で撮影した画像を素のまま表示できるモニタはやっぱり魅力的。あと2-3年すれば20万円台くらいまで下がってくれるかな?。それくらいなら是非買いたいです。
すいません、ミッコムさん飛ばしたままですいませんが話の流れで先にこちらを。
〇ハイディドゥルディディさん
>肉眼の分解能の観点では4Kは必要ないかもしれませんが、ピクセル数が増えれば面積あたりのダイナミックレンジが増えるので、視覚的にはかなりの差が出てくるのではないでしょうか。
>すみません、ダイナミックレンジが増えるというよりも、階調が増えるというべきでしたね。
視認できなレベルでのディザリングが可能ってことですよね。コストとリソースの問題が無ければ肉眼の分解能を超えることもアリだと思ってます。平均すると同じ色でも均一なのと少しノイズが加わったものでは印象が変わりますが、ピクセルを感じてしまうようなノイズはご免ですから意味はあるかもしれません。あと、プリントの絹目仕上げを加えるとか。ミクロンレベルでのデコボコをシミュレーションして画像に陰影を加えることで落ち着いた雰囲気を出すなんてこともできそう。デバイスの進化で作業効率だけでなく表現の幅が広がるならそれも楽しみです。
書込番号:21999292
0点

>しかしPCで写真とかを見る場合は不満なんです(超少数派のようですが)。今年31.5インチの4Kディスプレイ買いました
近距離では4Kや8Kの条件にはなります。
(添付画像と図中の式参照)
画面が31.5型のとき、
鑑賞距離が約31.5cm(0.315m)でしたら、視力1.0で8K相当のようです。
書込番号:21999538 スマートフォンサイトからの書き込み
2点

おはとうございます。
〇ありがとう、世界さん
資料提示ありがとうございました。測ってみたら自分の視距離は、55インチのテレビを見る時は2m、31.5インチのPCディスプレイで画面全体を見る時は60cm、テキストを読むときは40cm、画像のディティールを見る時は30-20cmくらいでした。自分の感覚は特別おかしくは無いようで安心しました。
〇ミッコムさん
もう見てないかもしれませんが…
>芸術写真登場以降に残ったのは「新しい表現かどうか」という価値観で、つまりそれは芸術写真自体の矮小化を予感できる物であったし、今後もそれは進んで行くでしょう。
有名な観光地に行って写真を撮るとき(例えば八方池でパンフレットにありがちな湖面に山々が映った写真とか)、「これを撮る意味があるんだろうか?」と思うことがしばしばあります。そんなとき"新しい表現"を模索したりしますが、それを何千何万という人たちが何十年も積み重ねていくと、結局表現のパターンは出尽くしてしまうでしょう。
ということを指している、で合ってますか?(^^;
どうも同じ土俵で議論できる頭が備わっていないようですが聞くは一時の恥ということで。
書込番号:22001199
1点

>高品交差点さん
> 以下のレポートを見る限り
ご紹介ありがとうございます。
環境(と視力?)が整えば、目を凝らすことで対処可能、ということですね。
8Kというと、動画のイメージで、止めて拡大して発見、みたいなイメージが強かったので、静止画でも、ナビゲーション必須、なのかな、と思っていました。
メーカーの方も、そういうところに訴求している感じなので…^_^;
書込番号:22001372 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>高品交差点さん
> 有名な観光地に行って写真を撮るとき(例えば八方池でパンフレットにありがちな湖面に山々が映った写真とか)、「これを撮る意味があるんだろうか?」と思うことがしばしばあります。そんなとき"新しい表現"を模索したりしますが、それを何千何万という人たちが何十年も積み重ねていくと、結局表現のパターンは出尽くしてしまうでしょう。
>ということを指している、で合ってますか?(^^;
合っています。合っていますが、矮小化は過程であって、目的ではないですよね。
芸術では無いですがパンフレットがまさにその形で、写真と文章の組み合わせで一つの表現形態になっていますね。
一枚の写真が素晴らしいかどうかではなくて、作品全体の一部としてどう機能するか?という事だと思います。
例で言えば、パターンが出尽くした後でもパンフレットにはその「らしい写真」が必要な訳です。
書込番号:22001494 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>ミッコムさん
横でごめんなさい…
> 例で言えば、パターンが出尽くした後でもパンフレットにはその「らしい写真」が必要な訳です。
それで、パンフレットの作成は、ルーチンワーク的なものになるのが、矮小化、という理解で良いですか?
で、出尽くした「はず」の新パターンを追い求めるのが、創造者?
そのココロは、
それって、写真に限ったことかな?、というのがあるので…(^_^;)
書込番号:22001530 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

>あれこれどれさん
>それで、パンフレットの作成は、ルーチンワーク的なものになるのが、矮小化、という理解で良いですか?
違います。
その一枚の写真がメインではないし、写真のプリントの精度も必須ではなく、そこに景勝地やら施設やらが写っているという事が大切であり、パンフレットの中で機能すると言うことです。
>で、出尽くした「はず」の新パターンを追い求めるのが、創造者?
コレも間違った理解を前提とした質問なので、違います。
が、文脈を無視して言葉だけみれば正しいんじゃ無いですかね?
僕は創造者の説明をしていた訳では無いので悪しからず。
書込番号:22001989 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

>ミッコムさん
> 違います。
ここはクリアに理解できた、と思います。(^_^;)
ありがとうございます。
なぜ、パターンが出尽くすことが「矮小化(のプロセス)」なのか?、それはなんとなくわかるとして、なぜ写真芸術なのか(絵とか音楽とか文章ではいけないのか、どうか?)、は、まず、よ〜く理解するために、黙って見ていることにします。
書込番号:22002041 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

>あれこれどれさん
とりあえず良かったです(^^;)
写真じゃ無くても良いのは今が写真以降の世界だからですよ。
その世界の未来像を語る上で、写真だけが先祖帰りするのは許されないんじゃないかな。
許される、、、の言葉選びがまた齟齬を生む予感w
社会的に容認される、受け入れられる、の意味です。
書込番号:22002074 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

お話の腰を折ってすみません、芸術とは無縁の者が言うのもなんですが、
アートの世界はブラックホールの様に人の思考の無限の可能性を感じます(=^・^=)、
あの時代桂離宮に市松模様の襖絵が忽然と現れ、当時の方がそれを受け入れた事に驚きを禁じ得ません、
機材が進歩するのはアーチストにとって福音以外の何物でもないかもです(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)、
最終的に機材は良い筆の様に、表現のための道具であり人の感性を超える物にはなり得ない物ですから。
書込番号:22003801
2点

こんばんは
解像度の話をもう少し。
DELLの31.5インチ8Kモニタの解像度は280dpi、最近のスマホだと200dpi越えも珍しくないですから表示デバイスの高解像度化はもはや既定路線。そうなると最初にその恩恵を受けるのは出版・製版業界でしょう。雑誌などで使われるオフセット印刷は175線(1インチに175本の線が描ける)なので印刷物の解像度そのままで表示できる350dpiのモニタがまず普及すると予想。A4見開きを実寸表示して解像度は同等、且つ編集ソフトのパレット類を表示させても25インチくらいあれば十分。印刷後の画質が劣化無しで画面で確認できるのですから、もはや校正のための印刷は不要になります。
そんなプロの世界にもまれて品質の高まったモニタが、普及価格で一般ユーザに提供されるのはざっと10年後くらいでしょうか?。その恩恵は一般ユーザーにもあるはず。プリントする際、普通紙とインクジェット紙のインクの乗りや滲み具合による画質の差、フォトペーパーのランクや光沢・半光沢の違いによる差などもプリント前のプレビューで確認できます。もしかしたら寸止めで実際にはプリントせずに「〇〇メーカーの最高級プリントペーパーの□□仕上げでシミュレーションした画像データが完成品」みたいな楽しみ方も生まれるかもしれませんね。
これが↓の近未来予想についての具体的なイメージです。
>■ディスプレイの表示能力がセンサーの記録能力に追い付く(または超える)
書込番号:22004535
1点

>阪神あんとらーすさん
>最終的に機材は良い筆の様に、表現のための道具であり人の感性を超える物にはなり得ない物ですから。
例えば、ライカが135mmで機動力を得て、スナップやら報道やらの分野を押し広げたり、ニューカラーは中判を三脚に据え置いてスナップしたことだったり、そういう道具あっての表現の変化という歴史的事実はあるわけですが、その辺の事はどう考えますか?
機材の進化が先行して初めて生まれた表現は人の感性を超えていたとは言えませんか?
個人的には「テクノロジーと人」「道具と人」みたいな対立構造では無いと感じます。テクノロジーも道具も人がやることなので、同時に進化するんじゃないかなと。
書込番号:22004546 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

こんばんは
〇阪神あんとらーすさん
既に酔っぱらって寝落ち寸前なので返信は明日書きますね。
〇ミッコムさん
進むどころか1文節戻って失礼。
>そもそも、写真が芸術に与えた最大の影響は「ローテク化、アマチュア化」です。つまり、工業機械とは楽する為、効率化を図る為の物であり、それが芸術に一歩足を踏み入れた(認められた)時、芸術作品における技術力の否定となった訳です。
ここで言う "技術力" とは "映像を使って視覚的に人の心に訴えかける作品を創る技術力" のことですよね。例えば、晴れた日に新倉山浅間公園に行って富士山と三重塔と桜をフレーム内に収めた写真を撮ったら皆同じように綺麗な作品ができますが特別な技術は不要、スマホでも十分、恥ずかしくてフォトコンにも出せません。しかし、この世に写真が存在しなかったとして、ガイドブックも無しにその場所を自分で探し出し、油彩とかでその風景を描いた作品があったとしたら、それは"芸術作品"になり得たはずです。そういった意味で写真は芸術を侵食したのかもしれません。
ただ、自分の考える "写真の芸術性" はたぶん他の多くの方とは違います。冒頭にも書きましたが、とある場所で360度の画角、数秒から数時間存在した中で、カメラマンが決めた瞬間と空間を切り取る。露出やフォーカースもカメラマンの意志で決める。その場所の時間・空間の中に存在する有り余る映像情報の中から、自分が表現したい部分だけを残し、他の情報を削ぎ落す(あえて情報量を極端に制限する)ことで、より鮮明に主題を伝える技術。テキストの文化に例えると俳句みたいなものでしょうか。
その場所に行ったり希望する天候まで待つとかの労力や運、画角や露出の選択、それを意図した通り記録する技術力をひっくるめたうえで写真というのは芸術足りうると考えています。写真は最終結果だけではなく作品に至るまでのプロセスも含めて評価されるべきというのが持論です。
書込番号:22006505
1点

>ミッコムさん
私の様な凡人が感性を語るのはおこがましと思うのですが、
私的にカメラはあくまでも道具と思っておりますので、人に使われてこそと思います、
スレタイの様にカメラが進化する事によって私の様な者でも写真を楽しめるようになった、のだと思います、
写真が発明された当初は、それこそ王侯貴族でも無ければ趣味で写真など撮れない様でしたし、
当時写真を撮って居た方々がデジカメを見たら腰を抜かすかもですね( ´艸`)、
当時の写真術と言われた技術的な事と、感性は別物とは思いますが、、
ある意味で、使い易く良いカメラと言うか、道具が人の感性を養っていると言う面も有るかもですね。
書込番号:22006882
2点

庭に除草剤を撒く夢を見て目が覚めました。
〇阪神あんとらーすさん
>あの時代桂離宮に市松模様の襖絵が忽然と現れ、当時の方がそれを受け入れた事に驚きを禁じ得ません、
恥ずかしながら桂離宮の市松模様のことは初めて知りました。
今見ても超モダンなんですが「怒られなかったのかな?」というのが第一印象(^^;
>最終的に機材は良い筆の様に、表現のための道具であり人の感性を超える物にはなり得ない物ですから。
これは、未来永劫そうであって欲しいという願望も無意識だったとしても含まれているのでは?
近年ではドローンによる空撮が素人にも手軽になったことが自分的にはインパクトが大きいです。水中ドローンの記事も出てましたよね、カメラの進化ってのは解像度や暗所性能のUPだけではなく、撮影エリアの拡大っていう要素もあったのかと驚きを禁じ得ません。
やがて、googleとかと連携して空撮や海中のお勧めスポットにドローンを運んで、ドローンでしか撮れないダイヤモンド富士や珍しい深海の生物とかを撮影できる時代が来るでしょう。でもそれは本当に自分の作品と言えるのか疑問です。道具してのカメラが進化した先はカメラが自分の感性を超えて写真を撮り、画像掲示板に自動でUPしてくれて、ついでにお礼のコメントを付けてくれる時代が来るかも。主人のカメラマンが亡くなっても自動充電して生前の主人好みの写真を撮り続けてくれたりして(^^;。まぁ、それはそれで幸せなことかもしれませんけど…
書込番号:22009173
1点

>2.映像の3D記録が一般化する
> 現状では縦横2次元での記録ですが、これに距離情報が加わると予想します。この技術に関しては自動運転技術からの流用が期待されます。
その自動運転用の撮影像素子において、
撮影素子のトップメーカーであるソニーは、必ずしもそうしないかも?
(下記リンクで明言していないだけ、かもしれませんが(^^;)
http://biz-journal.jp/i/2018/08/post_24285.html
↑
3ページ目の、講演の質疑応答部分
※記事の主旨はなかなか参考になるところがあります。
(講演者を実名で挙げるのは、少々気になるところではあるけれど)
※特許分類の「Fターム」に撮像素子の測距関連があったように思いますので、
上記の講演者がやっていないだけで、会社としてはケアしているかもしれませんので、気になる方は調べてみてください。
ところで、
古典的な「立体撮影」は何度も局所的ブームがあり、二眼まではフィルムカメラから映画、
デジカメやビデオカメラにもあり、
テレビやビデオカメラの規格にもなりましたが、「大企業の収益において必要な利益の継続」が出来ずにポシャってしまったのは周知の通りです。
上記のリンクの主旨にも関わりますが、
ーーーーーーーーーーーーーーー
>イノベーションとは、「爆発的に普及した技術、製品、サービス」である。
>その技術や製品が、高性能、高機能、高品質であるかどうかは一切関係ない。
>「爆発的に普及したかどうか」が重要なのだ。
ーーーーーーーーーーーーーー
↑
語としての意味などにおいては大きな問題ですが、
【「爆発的に普及したかどうか」が重要】
とは、少々古くはビデオデッキの「ベータ」対「VHS」、
カメラ板的には古典ネタの、「中判など35mm判以前の大きなカメラ規格 」対「ライカ判(135)※35mm判」
などを考慮すると、
>その技術や製品が、高性能、高機能、高品質であるかどうかは
【支配的では、無い】
とは思いますし、むしろ【挙げられていない事】が大きな影響を与えるようです。
そのような経緯を思い起こすと、
自動運転技術からの派生は意外に難産?
(自動運転関連は、撮像素子だけでなく、複数撮像素子からの【情報の統合と処理と活用】が最重要かも?)
※「中判など35mm判以前の大きなカメラ規格 」対「ライカ判(135)※35mm判」
ライカの35mm判以前に、35mm判と同等またはより小さい商品は登場していたようですが、複数メーカーが採用する「規格」または規格に近い状況であったものは、実質的に影響力が無かったと仮定の「対」。
書込番号:22009678 スマートフォンサイトからの書き込み
2点

>ありがとう、世界さん
> その自動運転用の撮影像素子において、
> 撮影素子のトップメーカーであるソニーは、必ずしもそうしないかも?
私はそう思います。
実際、その方に張っています。
自動車で思わしくないところがカメラ向けに目を向けている印象もあります。Towersemiconductorとかですね。
ソニー自身も決算の開示順序で半導体セグメントを下げています。
それは置いといて
立体写真は、写っているものと観ている人の関係性の制御が困難なので、そのまんまでは普及しないような気がしています。
平面なら、どこから見ても同じ感じでカメラの存在を一度切り離した感じになるのですが、立体画像とか映像は被写体、カメラ、観る人、という関係性が残って観る位置によって見え方が大きく変わります。
そこを逆手に取ってゴーグル前提ならあるかも?
自動運転の場合は、リアルタイム制御ありきだと思うので、そこから、表現、のネタを引き出すのは難しいように思います。
書込番号:22009736 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>高品交差点さん
> でもそれは本当に自分の作品と言えるのか疑問です。
それは、出来た画像に対峙する姿勢次第だと思います。基本的には、赤の他人なりロボットなりが撮った画像でも、集め方によっては、自分の写真(作品)になり得ると思っています。
アンソロジーの作者は誰?、とかありますね。
> カメラが自分の感性を超えて写真を撮り
感性を超えた画像をどう自分の中に取り込む(取り込める)か、なのではないでしょうか?感性の伸び代(を問われる)みたいな感じです。
P.S.
スレ主さんは、宮崎学(写真家の方)の、けもの道、をご存知ですか?
自動撮影で得られた写真を集めた作品です。
http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320092228
書込番号:22009917 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

レス、ありがとうございます(^^)
そのレスと、
先のリンク先3ページ目にある
>なぜです? プロセッサがCISの画像データを“見る”のですよ。
↑
これからチョット「妄想」してみます(^^;
(この分野の専門知識は皆無に等しいので、マトモに学術レベル~産業レベルでの専門知識を有している方のレスがあればいいのですが(^^;)
さて、
ヒトと画像処理上の共通概念の最小要素に、
平面画像に対しては「画素」がありますね。
二次元座標で示めすことも可能です。
立体に対しては三次元座標でも示されるわけですが、
自動運転以降になれば対向車などは「塊として動く」わけですから、
三次元座標データをサンプリングのタイミング毎に扱っているだけではダメなのかもしれません。
図示不可能であっても、仮想データ処理(※別の表現が相応しいけれども、認識障害のある迷惑な存在避けに自粛(^^;)においては、処理速度を無視すれば時間軸情報も含めた「最小構成要素」によって構成される「モノ」を扱うことが出来るのでしょう。
従来の画像認識技術延長線では、例えば、花束を持っている人と花柄のプリントシャツを着ている人の区別が付かないことがあるかもしれません(^^;
他、レア過ぎるケースですが、ピストルの絵柄プリントのシャツを着ている人が、テロリストがピストルを持っているものと誤認されて、攻撃型AIドローンによって殺害されてしまうとか(TT)
「こんな場合はどうなるのか?」と考えると、スレ違いも甚だしくなりそうなので、「妄想」はこのへんにします(^^;
書込番号:22009928 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>赤の他人なりロボットなりが撮った画像でも、集め方によっては、自分の写真(作品)になり得る
著作権上はそうなりそう~そのようです。
しかし、googleなどで拾ってきた画像を、個別に挙げただけでは、在り処を明示すれば引用なり紹介、
在り処を伏せてさも自らのモノだとすれば盗用に過ぎないでしょうけれど(^^;
書込番号:22009939 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

>ありがとう、世界さん
> 在り処を伏せてさも自らのモノだとすれば盗用に過ぎないでしょうけれど(^^;
問題は「あまりにもキマッている(ある意味で原作を超えている)」盗用の取り扱いだと思います。パロディ裁判の論点だった?
書込番号:22009967 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>高品交差点さん
写真の芸術性と、芸術を写真でする事とは違うと思いますし、高品交差点さんが考える独自理論としての芸術性という注釈付きならば、なるほど、という他無いです。
あくまで史実として過去に指摘された話です。
僕の気付きでも無く、真新しい話でも無いです。
書込番号:22010020 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>阪神あんとらーすさん
個人的には撮ってる時の楽しさも重要で、楽しく無いなら写真も止めます。
なので使って楽しい機材が最高です。当たり前ですけどね(^^;)
当たり前ですけど、個人的には道具選びに最も大切にしている視点です。
書込番号:22010058 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>パロディ裁判の論点だった?
「パロディ裁判」が本質で、論点は「勝つための手段」だったかも?
蛇足
パロディというわけではありませんが、
アマボクの件の会長と、
サングラスをかけているときのデギン・ソド・ザビが
最近の私的な「これって、パロディ?(^o^)?」だったりします(^^;
実写版Gで使えそうな?
いや、瞬の見た目はともかく、ガラが悪すぎてセリフ抜きとか(^^;
書込番号:22010243 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

すいません、やっぱりミッコムさんの書かれたことがちゃんと理解できていなかったようです。
これ↓について興味がわいてきたのですが、ネット上に「ここ読むとわかるよ」みたいなページがあったら紹介頂けないでしょうか。なければ書籍でも。
>あくまで史実として過去に指摘された話です。
書込番号:22010350
1点

>ありがとう、世界さん
> 従来の画像認識技術延長線では、例えば、花束を持っている人と花柄のプリントシャツを着ている人の区別が付かないことがあるかもしれません(^^;
案外、「(シャツの)動き」の違いから識別できるような気がします。
> 他、レア過ぎるケースですが、ピストルの絵柄プリントのシャツを着ている人が、テロリストがピストルを持っているものと誤認されて、攻撃型AIドローンによって殺害されてしまうとか(TT)
誤射防止と反応速度のトレードオフではないでしょうか?
誤射で被る被害(敵のWやーちゃったやっちゃった♪Wプロパガンダやら「ピストルの絵柄プリントのシャツを着ている」囮(人間の盾)に幻惑されて無用に弾を浪費するやら)と、ドローンを失う損失の勘案ということです。
書込番号:22010410 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

〇ありがとう、世界さん
リンク先読みました。トリニトロンを過信して液晶TVの普及を読めなかったソニー、ウォークマンで開拓した市場をiPod+iTunesにあっさり奪われたソニー。これからも繰り返しそうですね。ただ、自動運転技術についてはソニーがダメっていうより日本は海外勢には歯が立たないでしょう(海外だと軍事目的の比重も大きそうなので)。
ドローンですら既に飛行しながらリアルタイムに3Dマップを生成して障害物を避けながら飛行する時代。車での普及も早いでしょう。ただ、車だと周りは障害物だらけですから、ドローンと違って単独での3Dマップの生成には限界があります。信号機・電柱・街灯などに付けられたカメラや他車のカメラとリンクして、駐車中の車の隙間から飛び出す人間を察知できるシステムもやがて実用化されるでしょう。日本が国をあげてそういった実験都市を用意して開発を進めれば勝機はあるかもしれませんが、思いついたら即実行してしまう中国やアメリカにはやっぱり敵わないかな…
カメラの話に戻すと、3Dマップの生成技術は撮影にも有用なはずです。カメラ単独ではなく回りの機器(スマホとかを利用したサブカメラやサテライトカメラ)と連携して、位置情報は誤差数cmのGPSを活用。カメラマンが指定したターゲットをリアルタイムに追従してフォーカシングなどに利用する。今のAFは被写体がフレーム内に入っていることが前提ですが、フレーム外の被写体の位置情報・移動予測を外部機器から入手できればフレーム内に入った時点で既に合焦しているなんてことも実現できると思います。
ターゲットを破壊する・避ける・撮影する。目的は違えど必要な技術は共通ですから一番開発スピードが早そうな自動運転からの流用が早いだろうというのが自分の予想です。
あと、自分のイメージする3D記録についてはあくまで記録までであって、表示については今後数十年レベルでは2Dが主流だろうと思ってます。表示した写真に奥行きがあったとして、手前の花をタッチするとその花にフォーカスして、後ろの人物や風景にタッチするとそちらにフォーカスが移動する、そんな写真の見方ができるようになると予想しています。
書込番号:22010490
1点

>高品交差点さん
> 今のAFは被写体がフレーム内に入っていることが前提ですが、フレーム外の被写体の位置情報・移動予測を外部機器から入手できればフレーム内に入った時点で既に合焦しているなんてことも実現できると思います。
画角や撮影距離に制限を掛けて良ければ、いわゆる、レンジファインダーの出る目はあると思います。
撮影用カメラでも、確か、動画用だとそう言う(正確には用品)があったような?
普通のCM撮りに特化したような製品だか試作品。
書込番号:22010519 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

〇あれこれどれさん
>感性を超えた画像をどう自分の中に取り込む(取り込める)か、なのではないでしょうか?感性の伸び代(を問われる)みたいな感じです。
自分の感性がそれに追い付いて受け入れることができたなら、それは自分の作品足りうるってことですね。機器を買ったのは自分、撮影チャンスを与えたのも自分で撮影結果を認めたならオッケーって理論かな。
少し戻って
>で、出尽くした「はず」の新パターンを追い求めるのが、創造者?
写真に限らず、音楽・俳句とかでも共通の悩みを抱えていそうです。100年後、人間が心地良いと感じるメロディーや歌詞が出尽くしているかもしれない。575で表現できる全ての表現が存在して新しい俳句は生み出せないかもしれない。いや、そうでは無いと信じたいですね。あれ?、またズレたかな(^^;
ちょっと話を変えます。
不思議なのは写真には動画でのYouTubeみたいな1強のサービスが存在しないこと。現状ではソニーならαカフェ、他メーカーも同様のサイトがありますし、価格com掲示板にも沢山の作例スレが存在しますが、はっきりいってバラバラの状態。今やビッグデータの時代、類似したデータ素材は互いに引かれあって、バラバラだった写真のデータがYouTubeのように1つのサービスに集まり始めると予想します。
撮影した写真は自分のPCではなくインスタでもなく、その写真ストレージサービスにUPするのがデフォルトとなる。そこではカラオケの自動採点のように写真への評価がされる。「カワセミがダイビングして小魚を捉える瞬間の写真。構図70点、瞬間の切り取り80点、ただし類似した作品が既に15万点存在します」。作者「ガビーン!」みたいな。
絵画のような作者独特の表現方法で差が出しにくい写真の世界では、新しい表現の早い物勝ち競争が自称"芸術写真家"の争点になるかも。「この場所でのこの表現はあなたの作品が世界で初めてです。」と評価されたならその日は祝杯。そういう未来があっても良いと思います。
書込番号:22010587
0点

>高品交差点さん
> 不思議なのは写真には動画でのYouTubeみたいな1強のサービスが存在しないこと。
静止画に対する需要が落ち込んでいるのではないでしょうか?
以前はFlickrがあったのですが、今は、落ち込んでいると思います。日本語対応がないので、日本での知名度は低いと思いますが。
Flickrだと、いわゆる、「光の魔術師」クラスは、ゴロゴロしています(笑)。
どっちかと言うと、仕事のオファー待ちの人が集まっている感じです。
> 「この場所でのこの表現はあなたの作品が世界で初めてです。」と評価されたならその日は祝杯。そういう未来があっても良いと思います。
こういうのは、確かに、アリだと思います。コロンブスの卵度が高いとポイントが高い、とかですね♪
書込番号:22010645 スマートフォンサイトからの書き込み
0点

新しい表現というのは、往々にして既存の感性を持つ人たちが嫌悪するところから生まれてくるんですよね。
価格コムの皆さんも、一度自分が嫌いな写真表現を何通りか思い浮かべて見てください。きっとその中に、将来のトレンドとなるような表現がありますよ。(笑)
書込番号:22010666 スマートフォンサイトからの書き込み
3点

>高品交差点さん
>すいません、やっぱりミッコムさんの書かれたことがちゃんと理解できていなかったようです。
謝らんでください、こっちの説明下手が大きいです。
ネットでは無くて申し訳無いですが、、、↓
https://www.amazon.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96-%E7%94%B2%E6%96%90-%E7%BE%A9%E6%98%8E/dp/4865030514
僕が書いた事はまんま出てます。もっといろんな事に触れられています。
が、訳がしょぼいのか、僕の理解力不足なのか、読みづらいッス(^^;)
芸術と芸術的って語感が凄く乖離してると思うんですよね。
凄い!感動!アメージング!みたいなところはエンタメやエンタメ化されたあらゆるジャンルの方が優れていると思います。サッカー選手とかバスケット選手とか野球選手とかエンタメ化されたスポーツの神がかったプレーを「芸術的」とか評しても日本語的には違和感無いですよね。
当の芸術はそっち(感動)方面はエンタメに任してしまっていると思います。大雑把な事を言えばそれも写真が呼び込んだ変化だと思います。
結果的にもっと哲学とか学問とか「(いやらしい意味で)世の中の役に立たない」モノになることで、より純粋に芸術である事を目指している気がしています。
あくまで言葉の意味としてです。
例えば、哲学は役に立た無いですけど、それが誰かの処世術や方法論の後ろ盾になるなら、それは思想となり役に立つというような事です。役に立つ事は哲学にとってどうでも良い事という事。
芸術で見出された新たな方法論や価値観が、ビジネスやデザインや写真の「アイデアの種」になることはあるでしょうけど、それらと芸術は無関係に存在しようとするという事です。
つまり、「写真の芸術性」と「芸術写真」は既に全く違うモノになっちゃってると言うことで、「写真の芸術性」と「芸術的プレー」は同じ様な「賛辞の一種」だと思いますが、違いますか?
> その場所に行ったり希望する天候まで待つとかの労力や運、画角や露出の選択、それを意図した通り記録する技術力をひっくるめたうえで写真というのは芸術足りうると考えています。
「芸術とは○○である」が明確な上での「芸術性」という表現だとすると、努力も運も芸術の一部になってしまいます。ギャンブル(運)や農業(天候と労力)も芸術か?という事に。
なので、厳密に芸術から転じた芸術的や芸術性という言葉ではなく、個人の理想的写真像を語る道すがら芸術という言葉選びをされただけで、その「芸術」と写真が浸食した「芸術」は別モノです。
すんません。
あまりクドクド説明したらしたで、感じ悪いですね。
むむぅ。
書込番号:22011861 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

ニコンはプリ発光から異常反射(金屏風)を認識しているが
3D認識すれば屏風の段数までカメラが把握するかも
我が子より綺麗な保母さんに露出やピンも引っ張られるんかな
書込番号:22013169
1点

>高品交差点さん
>カメラが自分の感性を超えて写真を撮り、画像掲示板に自動でUPしてくれて、ついでにお礼のコメントを付けてくれる時代が来るかも
そんな時代が来たとすれば、人間はサイボーグ化し機械と融合して居るかもですね(-_-;)、
桂離宮の市松模様の襖、期会が有りましたら是非実物をご覧ください、
自然と融合すべく建てられ、極力柱など曲がったままで手を掛けた事を感じさせない東屋や茶室の中で、
普通に考えれば真逆な物が見事に調和しながら全体を引き立て、適度な緊張感さえ感じました。
、
>ミッコムさん
同感です、趣味の世界では楽しんだもの勝ちかもですね(=^・^=)、
カメラのスタイルですが、道具のデザインはその形に必然性を問われるのが難しい所かもですね(=^・^=)、、
それなりに重く嵩張り、アクセサリーには不向きと思いますので、、
カッコ良くて合理的、当然その形に機能性が備わって居なければ直ぐに飽きるかもです( ´艸`)。
、
書込番号:22013426
1点

>ハイディドゥルディディさん
>新しい表現というのは、往々にして既存の感性を持つ人たちが嫌悪するところから生まれてくるんですよね。
僕の理解では少し表現が異なっていて、新しい表現は「新しいと気付く」必要があるわけですが、それには気付く為の踏み台が必要なんです。
その踏み台とは「現在の表現」です。
「現在の表現の否定」か「複数の現在の表現の組み合わせ」か。
前者であればご指摘の通りマジョリティからの嫌悪という反発がありますし同時にマイノリティからの熱烈な支持に支えられます。後者であればゆっくりと浸透するでしょう。
荒唐無稽な全く新しい表現は「新しい表現」とは気付かれずに終わります。人の意識は一足飛びには進化しないし、だからこそ仰せの通り「現在の表現」に注意を払う事はとても大切だと思います。
書込番号:22013613 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

僕も少しさかのぼってコメント、すいません。
> でもそれは本当に自分の作品と言えるのか疑問です。
あれこれどれさんも言っておられる姿勢に通じますが、それを自分の作品と呼べない根源は何か?という部分について。
一つは著作権という視点。
個人的にあんなものは利益や名声の確保以外の意味はないと思っています。が、コレを自然権のように感じてしまっている可能性です。僕らアマチュアは自分の作品で食べなきゃならないという制約は無いわけで、「どうでも良い」と気付いて強みにすべきと感じます。プロに対するアドバンテージであり、プロの真似事をする必要はありません。
もう一つはその作品は誰が主体かという視点。
作品が共同制作であるような場合、自分の作品と言って良いかどうか。貢献度の自意識がある水準を満たしていない可能性です。
例えば、聖徳太子が四天王寺を建立した、みたいな事かな。作ったのは宮大工だろ!的なね( ̄∇ ̄)
最終的に、誰が作ったか?って実はどうでも良いと思います。
聖徳太子も政治家として評価されているし、四天王寺を建築した金剛組は今も世界最古の会社として存続してます。
AIが作品を撮ったとしてもそんな素晴らしい画像を収集できるAIを作った人は、他にも素晴らしいAIを作れるだろうし。
つまり、作品=作家というセットで評価される必要は必ずしも無い訳ですよね?新しいイメージ新しいシステム新しい作品を生む力があれば一つ一つの作品に固執する必要は無く、新しさを生む人としていくらでもその人自身に需要があります。んで、作品は時代を超えて残って行く。
そのように考えると、自分が作ったと言えない理由と言うのは高品交差点さんの言われた様な「プロセスが重要」で、そこに自分自身が納得感が無いからという事ではないかなと。
自動撮影の是非などは、「自分が撮ってない」と評価するか「自分が生み出したアイデアだ」と評価するかで、納得感は異なるでしょう。
話がそれますが、僕は芸術を結構簡単で気楽なモノと考えています。何かとんでもなく小難しく高度な事というよりも、「こんなのやってみたよ、どう?」みたいな作家の問いかけを楽しむモノではないかなと。
サラリーマン川柳とかがイメージに近いです(^^;)
言葉じゃないから分かりにくいけどね。
なるほど!上手い!みたいな感じ。
書込番号:22013638 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

おはようございます
ミッコムさん、本ポチりました。紹介ありがとうございました。
趣味は楽しんだ者勝ち、自分もそう思います。
最初に書いた通り、想像するだけならタダです。これも自分にとって写真という趣味の一環.。
今回は2700円かかったけど(^^;
レスはまた別途書きますね。
書込番号:22013666
0点

>高品交差点さん
>ミッコムさん
> ミッコムさん、本ポチりました。紹介ありがとうございました。
同じくです(^^)/
Kindle版がないのが残念…。
生活空間の空きには拘る人なので(笑)。
その割には、カメラ…(自爆)
書込番号:22013908 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>高品交差点さん
>あれこれどれさん
>本ポチりました。
>同じくです(^^)/
おお!
楽しみです。
もっかい読もうかな。。。苦痛だけどw
書込番号:22013914 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

>ハイディドゥルディディさん
> 自分が嫌いな写真表現
どこが「凄い」か理解できない写真表現…^_^;
自分の限界を悟るから。写真を観る「目」は、写真を撮る「目」でもありますよね?
ただ、その写真から撮るプロセスにある困難が見て取れるから「凄い」というのは、芸術表現として本当に凄いのか?、というと、個人的には「違う」と言いたいところです。
例えば、加工困難な素材を何とかねじ伏せて作られた彫刻は貴重な物だと思いますが、それだけで「芸術作品」としての価値が高いかと言うと?
でも、普通なら捨てられる部分の価値を引き出した、とされる、あまりにも有名な「白菜」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%A0%E7%8E%89%E7%99%BD%E8%8F%9C
は…?
とは言え、似たものを3Dプリンターで、後の色付けナシで作ったらどうでしょうか?
3Dプリンターの技術開発としては凄いはずですが、作品?としては?
書込番号:22014146 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

〇あれこれどれさん
>スレ主さんは、宮崎学(写真家の方)の、けもの道、をご存知ですか?
>自動撮影で得られた写真を集めた作品です。
知りませんでした、図書館で探してみますね。1976年ってワインダーも一般的ではなかった時代、無人撮影するには相当な工夫と努力が必要だったと思います。動物撮影の場合、一番邪魔なのは人間ですから、近未来の動物撮影はAI搭載のドローン(飛行型・多足歩行型・水中型)を使用すること主流になるかもしれません。カイツブリやカワセミが水中で魚を捕食する瞬間とかも、アマチュアユーザー(小学生が自由研究とかでも)撮影できる時代が来るとしたらそれは素晴らしいことです。
〇ありがとう、世界さん
>従来の画像認識技術延長線では、例えば、花束を持っている人と花柄のプリントシャツを着ている人の区別が付かないことがあるかもしれません(^^;
>他、レア過ぎるケースですが、ピストルの絵柄プリントのシャツを着ている人が、テロリストがピストルを持っているものと誤認されて、攻撃型AIドローンによって殺害されてしまうとか(TT)
これは人間なら容易に識別できますよね。対象物が平面なのか立体物なのか、あとは周りの状況(シャツと認識した中にある、手で持っている)とか。今乗ってるエクストレイルのプロパイロットだと、1台前がバイクでその前が車という状況で、バイクが存在しないかのように車間を詰め始めたので驚いてプロパイロットを切ったことがあります。これって単眼なのと測距用のレーダーも使ってないのでバイクが前車に溶け込んでしまったのが原因と考えています。誤認しないためには距離情報の取得や立体視する技術が最低限必要なのだと感じました。
〇ミッコムさん
会社帰りに電車で読んでますが面白いけど難しい。3回以上読み返さないと理解できなそそうです。
書込番号:22019353
1点

もはや未来予想と全然関係無い話で恐縮ですが…
〇あれこれどれさん
今日出かけたついでに知っている図書館2か所に行ってみましたをしましたが「けもの道」の蔵書は無し。で、さっきネットで検索したところ見つかったので明日借りに行くことにしました。ただ、代わりに「僕は動物カメラマン」宮崎 学/著という本を発見。読みやすい本だったので借りずにその場で読んできました。
http://www.owlet.net/hon/doubutucameraman/
この中で「けもの道」の撮影時の苦労についても述べられていました。昆虫写真家が自作の赤外線センサーでレリーズする装置を使って撮影していたことを参考にして、何年もかけて野生動物用の撮影機材を自作した話とか、非常に読みごたえがありました。最後の方で、自分のことを芸術家と呼ぶ人がいるが、自分ではそう思ったことはない。ただ、ありのままの自然を撮影することに精一杯で、芸術なんて考える余裕なんてない。ただ、そうであっても生の自然の見て芸術と感じるならそれはその人の中にあるのだろう(文章の再現率20%程度)。という言葉が印象的でした。とにかく動物写真に対する熱意は半端無くて、いつも楽して撮影することしか頭にない自分を恥ずかしく感じるほどでした。野鳥など動物写真が好きな方には是非ともお勧めしたい本です。
書込番号:22024497
1点

〇ミッコムさん
>が、訳がしょぼいのか、僕の理解力不足なのか、読みづらいッス(^^;)
何かもう全然読み進められないんです。「これは何を言っているんだろう?」と3行読んだら2行戻るの繰り返し。嫌になってランダムにページを進めて理解できそうな部分を探すゲームみたいになってますよ(^^;
>「芸術とは○○である」が明確な上での「芸術性」という表現だとすると、努力も運も芸術の一部になってしまいます。ギャンブル(運)や農業(天候と労力)も芸術か?という事に。
ここは自分がうまく説明できていないと思うのですが、写真の芸術性とは「自然や事象を切り取る」ことにあると考えているのです。時間・空間・色彩を絞り込む作業から単なるリアルではなく新しい映像を生み出すことができる、みたいな。対象が存在しなくてもイマジネーションだけで描ける絵画と違って、少なくとも被写体が存在しなければ写真にはなりません。なのでカメラマンがイメージする被写体を得るための運や労力が画家のイマジネーションに代わるものであるならば、それも芸術の一部であって良いのではないか、ということ。あくまで持論で皆がそう考えるべきとまでは思ってません。なのでお互いこれ以上掘り下げる価値は無いでしょう。
〇あれこれどれさん
さっき書き漏れました。書の中で、動物を撮影していると相手が自分やカメラを意識しているのがわかる、そのせいでその写真そのものが不自然になってしまうと。それが後の無人撮影につながっていくのだとだと思いますが、リアルな自然を撮影しようとする撮影者とカメラの存在がその作品を不自然なものにしてしまう。何とも皮肉なものです。自分が予想したドローンを使った撮影を行うにしても、そのドローンを動物や植物に擬態するなど工夫が必要そうです。
#ちょっと予想が入った(^^)
書込番号:22024568
1点

高品交差点さん
>自分が予想したドローンを使った撮影を行うにしても、そのドローンを動物や植物に擬態するなど工夫が必要そうです。
ドローンだと、うるさすぎて敏感な動物撮影には難しいと思います。
自然の中でドローンを使うのはうるさくて嫌いです。
書込番号:22025017
1点

おはようございます
○多摩川うろうろさん
>ドローンだと、うるさすぎて敏感な動物撮影には難しいと思います。
今のドローンだと無理ですよね。それで「近未来の動物撮影は」としました。例えばトンボみたいに静かに飛行する方法(相当な小型軽量化が必要ですが)が開発されれば、相手に警戒されずに撮影するとも可能になると思います。
なお、自分はドローンを「AI搭載の無人機」という意味で使いました。言い換えると小型ロボット。目的は野生動物に人間やカメラを意識させずに(ストレスを与えずに)その生態を撮影することです。法やマナーの問題も出るでしょうから、子供が自由研究でとか書きましたが、現実には誰でもどこでも使えるってことにはならないでしょう。
宮崎学氏の本によると、無人撮影ではあらかじめ木にカメラを固定し、動物の通り道に赤外線センサをセット。制御ユニットは目立たないように土に埋めたりしたそうですが、ムササビタイプのドローンが出来たとすれば、自分で木に登って撮影位置を確保したり状況に応じて位置を移動させることもできます。撮影後は離れた場所にいる人間の元に飛んで返ってくると。こんな飛行+歩行型のドローンが出たら欲しいです。
書込番号:22025278
2点

高品交差点さん
>例えばトンボみたいに静かに飛行する方法が開発されれば、相手に警戒されずに撮影するとも可能になると思います。
それなら面白そうですね。
ドローンでトンボを追いかける撮影とかやってみたいです!
アリと同じ大きさで、アリの巣穴に入っていくとか。
現状で考えていただけでは面白いものは撮れませんね。
ありがとうございます。
宮崎学さんの本持っているはずです・・・。
書込番号:22025729
2点

〇多摩川うろうろさん
>アリと同じ大きさで、アリの巣穴に入っていくとか。
VRのゴーグル付けて探検できたらと思うとワクワクしますね。仮にセンサーサイズが1mm角として、24Mのα6500と同じドットピッチだとすると解像度は250×250と物足りない。でも、スマホだと豆粒センサーで2,000万画素とかありますから今の技術でも1000×1000くらいはイケそう。課題は足を動かすアクチュエータとバッテリですね。今の勢いだと中国が最初に作りそうな予感。そしてロシアが暗殺用に利用するとか(^^;
書込番号:22029181
1点

>多摩川うろうろさん
>高品交差点さん
> アリと同じ大きさで、アリの巣穴に入っていくとか。
似たことのできるレンズはあります。
一応は、consumer grade(リーズナブル)だそうです。
https://www.canonrumors.com/venus-optics-officially-announces-the-laowa-24mm-f-14-2x-macro-probe-lens-a-weird-but-revolutionary-lens-for-macro-videography/
動画は、一見の価値ありです。
書込番号:22029200 スマートフォンサイトからの書き込み
2点

◎高品交差点さん
お返事ありがとうございます。
>そしてロシアが暗殺用に利用するとか(^^;
ははは、ロシアですか。
ロシア人個人は親切で好きなのですが・・・。
でも、ガス管漏れ検査ロボットなどで案外早く実用化されるかも。
◎あれこれどれさん
このレンズ知ってますが、動画までは知りませんでしたので、ありがとうございます。
動画見ました、おもしろいですね。
ちなみに、このレンズではありませんが、LAOWA の変態レンズいつも撮影に使っています。
書込番号:22029833
1点

撮影時刻が正確である、位置情報が刻まれている。
従来の写真以上の楽しみかたがあるようにも思います。
書込番号:22030145 スマートフォンサイトからの書き込み
1点

〇あれこれどれさん
面白いレンズの紹介ありがとうございます。光ファイバーで延長しなくてもこんなに長い広角レンズが作れるってことに驚きました。このレンズ1本だけ付けて昆虫写真の旅に出るとか楽しそう(^^)。日本でもオリンパスなら作れるかな?
〇多摩川うろうろさん
昆虫サイズのドローンが実用化されたら、最初に使ってもらいたいのは小・中学校とかの教育現場。教室や屋外でVRゴーグルを付けて蟻や蜂と行動を共にし、その社会生活を学び人間社会と比較するカリキュラムとかできそう。体のサイズが違っても社会の中で生き方(苦労)を知り、そこから生き物を大切にしようという気持ちが生まれれば成功かな。宮崎学氏の書でもも動物写真を通じて猛禽類みたいに繁殖力の弱い動物を剥製にするとか単なる鑑賞用の動物としてではなく、生き物として大切に思ってもらえるような力になりたい、的なことを書かれていて感銘を受けました。
〇けーぞー@自宅さん
>撮影時刻が正確である、位置情報が刻まれている。
>従来の写真以上の楽しみかたがあるようにも思います。
このようなメタデータ(付帯情報)はどんどん増えていくでしょう。ただ、撮影後の画像を分析してタグなどを付けていく技術はまだまだ実用化の途中のようです。
https://wired.jp/2018/01/18/gorillas-and-google-photos/
メタデータの付加は後付けより撮影時の方がより精度が増しますから、撮影時の諸条件(気象情報とか)や被写体の情報など(事前登録済の家族や友人のプロフィール)を記録するとか。GPSから得られる撮影位置など個人情報の類は原則非公開になるにしても、意図的に撮影時間・位置の公開を許可することで、「自分が北海道旅行で山に登ってる同時間帯に友達Aは田町で飲んでたんだ」とか、「自分は撮り損ねたけど同じ場所・時間帯でこんな風景が見れたのか」と自分が見損ねた・撮り逃した映像(体験)を追従して楽しめる可能性を秘めています。
写真とはそれ単体が持つ情報以外にも、同時記録されたメタデータを使って様々な観点から類似画像を呼び集めて楽しむ時代が来るのだと予想します。
書込番号:22031726
0点

50年後の写真の楽しみ方は、おそらく、刹那を楽しむ方向にいくんちゃうやろか。
撮ったデータが変化し消える、有限を楽しむ道具になる、気がする。
撮った蕾の写真が2日後に花開き、咲いていた花が枯れる。
なぜそう思ったかというと、6月に撮ったデータがHDが壊れ飛んだからです(笑)
いっぱい時間かけて、いろんなところに行って、たくさん撮ったんですけど、消えた時、なぜかスッキリした(笑)
また、0から始めます♪
書込番号:22031817
2点

〇おりこーさん
>撮ったデータが変化し消える、有限を楽しむ道具になる、気がする。
>撮った蕾の写真が2日後に花開き、咲いていた花が枯れる。
イイですね、プレゼント用としてもお洒落かも。50年後ならカラーで高画質の電子ペーパーもあるでしょうから、その花の写真を机とかに飾って日々楽しむこともできるでしょう。静止画のようでいて且つ動画のようにも振舞う、写真と動画の境界があいまいになっていく予感がします。例えば花の蜜を吸うために蝶が止まっている写真がある、綺麗だなと思って近くに寄ると蝶が逃げてしまう。そんな観察時の適切な距離感の再現も含めて "真実を記録するのが写真である" なんて主張する人が出てくるかも。
書込番号:22033977
1点


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